パラのギャグ漫画
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ギャグ漫画ブルース

私はかつて、
アニメーション系専門学校の
漫画コミック科に入り、
漫画家を目指した。
しかし、そこには理想とは
かけ離れた現実があった。
その後、高認
(高校卒業程度認定試験)を
受けて大学に入学した。
これはノンフィクションの
体験記である。

1.漫画家を目指していた頃

(1)漫画家を目指したきっかけ

その昔、私が通っていた中学校はひどいところで、高校には絶対に行きたくないと思った。
しかし、何もせずにブラブラして過ごすということは、私には考えられなかった。
だが、中卒でできることは一体何だろうか、と悩んだ。
私の特技といえば、漫画を描くことぐらいで、漫画界には学歴差別はないということも知っていた。
だから、私は中学を出てすぐに漫画の専門学校に進んだ。
それまで、自分が漫画家を目指すなどということは、夢にも思ったことがなかった。



(2)専門学校時代

その専門学校では、外部から漫画家や編集者などが来て、しばしば生徒が描いた漫画作品について、講評会のようなものが行われた。
また、当然ながら教員による批評は頻繁に行われた。
これは、非常に苦痛をともなう体験であった。
私の作品は嫌われることのほうが多かったからだ。
ある編集者は、私以外の全ての生徒たちの作品を上機嫌でほめていたのだが、私の作品だけがダメだとして、長時間、失笑しながら罵倒し続けた。
クラス全員の眼前に立ち、注目された状態で、しかも私以外が全てほめられていただけに、私はひどく恥をかかせられたと感じた。
また、他の生徒たちの作品の中での最低点は60点なのに、私の作品にだけ、『0点』と書いて返却してきた教員もいた。
ある時、某大手週刊少年誌の副編集長が来て、講評会が行われた。
全ての生徒たちの作品は酷評されていた。
私の作品を読んだ副編集長は何も言わなかったので、つまらなかったのだなと思った。
副編集長が帰った後で用事があって職員室に行くと、教員や事務員の人たちが私のところに集まってきて、

「キミ、すごいじゃないか!」
「キミのこと、ものすごくほめてたぞ!」

と興奮しきった様子で私に言った。
私は副編集長が私の作品をほめてくれていたということを知り、驚いた。
その時、私の周りに集まってきた人たちの中には、普段、私や私の作品に対して好意的でない人たちもいた。
その彼らが、自分の学校の生徒がほめられたことでこんなに興奮しているのだから、よほどの絶賛をしてくれたのだなと思った。



それから夏休みに入ったが、夏休み期間中にも、夏合宿という形で授業が行われた。
その際、授業の一環で、某週刊少年誌の編集部に原稿の持ち込みをした。
そこの編集長は、私の作品を一目見て、呆れ果てたように

「うわっ……!」

と言って失笑した。
そして、侮辱的な批評をした。
私はひどく落胆した。
その後、校舎に戻り、そこで二人のプロ漫画家が生徒たちの原稿を見てくれるということがあった。
私は落ち込んでいたので、見せたくないと言い、作品を見てもらうための列には並ばず、椅子に座ったままでいた。
すると、友人たちが

「見せてみなければわからないじゃないか!」
「見せろ!見せろ!」

というので、断れない性格の私は、いやいや列に並んだ。
私の前に並んでいた生徒たちは皆ひどく作品を批判され、ある生徒などは

「そこまで言われたら僕も黙ってられませんよ!」

と言って漫画家に反論し、漫画家も猛然と言い返して激しい口論になるなど、恐ろしい状況になっていた。
私は、列に並んだことを心底後悔した。
順番が来たので原稿を見せると、生徒と激論していたその漫画家が、

「これこそ漫画だ!」

と言った。
そして

「見てみろ!」

と言って、もう一人の漫画家に原稿を渡した。
するとその人も

「ホントだ……これはすごい!」

と言った。
そして、

「君はどこでやりたいんだと?」

と聞かれたので、私は遠慮がちに

「できれば週刊少年ジャンプで……」

と答えた。
すると、

「君ならどこでもやれるよ」

と言ってくれた。
これ以上ないほめ言葉だった。
私はこの漫画家たちと、見せるように言ってくれた友人たちに対して、深く感謝した。
その時ほめてもらった作品は、
『クルッチョ!彼はたわけている』
というギャグ漫画で、現在、アマゾン等で配信している
『パラのギャグ漫画』
に収めてあるが、現在の漫画ファンがクルッチョを見ると、なぜこういう絵柄のものをプロが絶賛したのか、理解できないかもしれない。
しかし、当時は、

「漫画は絵じゃない。中身だ」

という言葉を、漫画家も編集者も、そして読者も、皆が言っていた時代だった。
私は小学校の頃、北海道にも鹿児島にも住んだことがあり、友人たちとよく漫画談義をしたが、小学生でも、絵が上手いだけで中身がつまらない作品を描く漫画家を非常に軽蔑していた。
面白いことを描く才能がないことを、絵でごまかそうとしていると言っていた。
それぐらいなら、絵が下手なほうが、中身だけで勝負しようとしているぶん、こざかしくなく、ずっとましだと思われていた。
そのように、1にも2にもデッサンや今風の絵が重要とされている現在の漫画界とでは、漫画に対する価値観がほとんど正反対の時代であったのだ。



クルッチョ!彼はたわけている   
※『クルッチョ!彼はたわけている』1991年。    
   
   
   
その専門学校の先生の中にも、私の作品をとてもほめてくれる教員が少数派ながら存在した。
当時、私の漫画について、3割くらいの人は手を合わせなくてよいのだろうかと思うほど絶賛してくれた。
しかし、7割くらいの人は親のかたきにでも出合ったように私の漫画を憎み嫌って猛攻撃してきた。
そして、私の作品を酷評する人は、私以外の全員の作品をほめていた。
逆に私の作品をほめてくれる人は、私以外の全員の作品を酷評していた。
私に対する評価だけが、いつも他と分かれた。



(3)専門学校卒業後

卒業後、私は漫画雑誌への投稿を始めた。
例の職員室での一件があったので、あの大手週刊少年誌の副編集長に漫画を送ってみることにした。
二度ほど新人賞に落選しただろうか、三度目に新人賞を受賞することができた。
しかし、元々本人の目の前では一切ほめないという昔気質の人であったからか、それとも副編集長が新人の担当をすることはないからなのか、別の人が担当につくことになった。
ところが、それが不幸の始まりであった。
その担当は、些細なことでよくヒステリーを起こし、私を怒鳴った。
そして、言いがかりとしか言いようのない的外れな理由をあれこれとつけて、私が描いたほとんどのギャグを削除あるいは改変するように強要してきた。
それは、作品の改悪につながることは火を見るより明らかな、馬鹿げた要求ばかりだった。
自分で自分の作品を改悪することは、私にとってはらわたを引き裂かれる苦痛であった。
一度だけ、これでは私は描けることが何もなくなってしまうので、もう少し自由に描かせてほしいと抗議したことがあったが、全く通じなかった。
私は、心血を注いで考えたギャグを、ほとんど全て削除、あるいは改悪せざるを得ない状況に陥っていた。
やがて、デビューの話まで至ったものの私は、これでは操り人形のようにこの担当の言うとおりの内容を描いているだけで、自分が漫画を描いている意味は全くないと思った。
だから私はデビューの話を断り、その雑誌を去った。



その後、週刊少年ジャンプでのデビューを目指すことにし、すぐに新人賞の最終候補になり、このままいけばチャンスはあるように思えた。
しかし、この頃から私は、漫画が描けなくなっていった。
長く作品を全否定されるような状況が続いたためかはわからない。
私は、自分の作品について自問自答を繰り返し、その苦しみのあまりペンを握っても動かすことができなかった。
描けないというどうしようもない事態に苦悩し、短期間に三度も病に倒れた。
三度目に倒れた後、今後どうするべきか考え抜いた。
そして、漫画家への道を断念することにした。
断腸の思いであった。
それから、15年ほど時が流れた。

明日もメガクラッシュ   
※私が漫画を描けなくなる直前の、最後に描いた漫画『明日もメガクラッシュ』1993年。    
   
   
   

2.大学を目指す

(1)大学との出会い

ある日、私がたまプラーザを歩いていると、何やら賑やかな音が聴こえてきた。
その音は、大学のキャンパスから聴こえてきたものであった。
そこは国学院大学の、たまプラーザキャンパスというところで、現在の国学院では文系学部の学生は4年間渋谷キャンパスにかよっているのだが、当時は文系であっても1~2年時には、たまプラーザキャンパスにかよっていた。
私が大学のキャンパスを門の外からのぞき込んでみると、たくさんのサークルが新入生を歓迎するための催しを行っていた。
楽器を演奏したり、大きな声で新入生の勧誘を行ったり、ビラを配ったりしていた。
私は季節など意識せずに毎日を過ごしていたので、

「そうか。今は入学シーズンだったのだな」

と初めて気が付いた。
そのキャンパスの周りには、たくさんの桜の木があった。
風がそよぎ、4月のさわやかな青空のもと、桜吹雪が舞い散っていた。
それは美しい光景だった。
賑やかな音、そして希望に満ちた新入生たちの姿。
私はうらやましかった。
そして、悔しかった。
目の前の彼らには、こんなにも素晴らしい青春がある。
しかし、私には明るい青春など何もなかった。
強烈な無念が私を襲った。
その美しい、素晴らしい光景は、私の心に深く焼きついた。



それ以来、私は書店に立ち寄ると参考書の前をウロウロするようになり、ある日ついに参考書を買ってしまった。
そして自宅で、一人で勉強を始めた。
しかし、私は高校には入ったこともなく、中学さえほとんどかよっていなかった。
しかもそれから年月がたちすぎていたため、私の勉強の実力は、be動詞とは何なのか、ということさえわからないというあり様であった。
この時点では、まだ具体的にどこかの大学に入ろう、などとは考えていなかったのだが、自分を抑えきれなくなって勉強を始めたという感じであった。
しかし、当面の目標は必要だと思った。
そこで、まずは高卒認定試験の合格を目指すことにした。
数か月後、どうにか合格できるめどがたったので受験を申請した。



(2)高校卒業程度認定試験

私は一橋大学で高卒認定試験を受けることになった。
ところで、この高卒認定試験の受験は、なかなか面白い体験となった。
試験当日、国立駅から並木通りを歩いて大学にたどりつくと、受験生が大勢校門から入っていく。
ところが、その受験生が普通の大学入試などとはちょっと違っているのだ。
まず目についたのは、あからさまにホストだとわかる軍団であった。
ホストキャラを演じるお笑いタレントのような白いスーツを着て、金色のハリネズミのようなヘアスタイルをした男たちなのだが、私は

「何もわざわざ仕事着で受験に来ることはなのに……」

と、とてもユーモラスに感じた。
次に目についたのは、茶髪で、派手なダボダボの半袖シャツと短パンを着た、あからさまに不良といった風貌の少年であった。
この少年が校門から入っていく様子を、私は背後から見ていた。
入り口では、様々な受験の専門学校が、受験生にビラを配っていた。
するとこの少年、ビラをわたそうとした人に丁寧に会釈をして断っている。
私は自分以外で、こんな丁寧な人は初めて見たので、その風貌と行動とのギャップに驚いた。
意外と悪い奴ではないのかもしれない。
さらにその後、暴走族の大集団が大学内に入ってきた。
悪ぶった歩きかたで周囲を威嚇している。
昼休みに、この暴走族たちが大学の中庭で、いわゆるウンコ座りをして煙草をふかしているのを見た。
リーダー格とおぼしき少年はご丁寧にテーブルの上にのっかり、そこでウンコ座りをして煙草をふかしている。
まるで猿山のボスといった風情だ。
大学の警備員が苦々しそうにその姿を見ている様子が印象的だった。
あんな一橋生はいないだろうから、さぞ異様な光景に見えていたことだろう。
ところがその場所をよく見てみると、実は定められた喫煙スペースなのであった。
それで私は、

「一応ルールは守っているのだな」

と、これまたユーモラスに感じた。
さすがの彼らも、ルールを破って試験を不合格にされては困るのだろう。
ホスト軍団にしても、暴走族にせよ、

「俺たち、このままじゃマズイよな?」

と話し合い、みんなで高卒認定試験を受験しようと決心したのかと想像してみると、私はなんだか憎めない連中のように感じてしまった。
もちろん、そのような不良ばかりが受験に来ているわけでない。
いかにもイジメにあっていそうな、ひ弱い感じの少年少女たちや、どんな仕事をしているのか見当がつかない、陰のあるおじさん、おばさん、
(もしかして、その筋の人かも……などとも想像した)
それにおじいさんや、おばあさんもいる。



そんな多彩な顔ぶれと、私は教室で席を並べて共に試験を受けた。
そこに身を置きながら私は思った。

「このように様々な年齢層、個性を持った生徒たちが集まっている状態こそ、学校の理想的な姿なのではないだろうか?」

この教室が実際の学校のクラスだと仮定して想像してみる。
もしも不良が気の弱い生徒をいじめたらどうなるだろうか?
きっとおじいさん、おばあさんに叱られるだろう。
さすがの不良も恐縮してしまうのではないか。
同じような年齢の生徒ばかりを集めているから、イジメなどという問題が起きているのではないだろうか?
現在の学校というシステムは、効率が良い教育のあり方のように見えるかもしれないが、同じ年齢層だけの社会などというものは、社会としてあまりにも不自然なのではないか?
試験の結果、私は必要な全教科で予想以上に良い点数をもらい、高卒認定試験に合格することができた。
これで大学を受験する資格を手に入れることができたのだ。



(3)大学受験

それから数年間は、仕事が忙しかったこともあり、大学を受けることもなく、勉強もしなかったのだが、仕事が一段落すると、やはり大学を受験したいという気持ちになった。
ただし、国学院を受験することにこだわることはなかった。
なぜなら、私はこれまで受験と全く縁のない人生を送ってきたために、大学について何も知らず、大学はどこも同じようなもので、みんな素晴らしいところなのだろうと考えていたからであった。
入試の偏差値が違うなどということさえも、全然知らなかったのだ。
大学名の違いなどは、箱根駅伝のテレビ中継で聞いたことがあるか、ないか、というくらいのささいな違いとしてしか認識していなかった。
だから、受験する大学の名前に対するこだわりは一切なかった。
しかし、私の家から大学までの距離については、通学するうえで重要な問題なので、自宅から近い大学を選ぼうと考えた。
そう考えると国学院は、1~2年がたまプラーザということで、私の家からは遠く、毎日かようのは難しいと判断した。
そこで私は、自宅から一番近くにある、とある大学のオープンキャンパスに参加してみることにした。



オープンキャンパスでは入試についての説明会が行われる。
私は大勢の受験生やその両親とともに会場の席につき、説明を聞き始めた。
すると説明の第一声が

「みなさんは全員18歳ですが……」

というものだった。
私は少し驚いた。

「大学というところは、もちろん若者も来るところだが、大人も学びに来るところではないのか?」

私は自分が温めてきた大学入学という夢に、思いがけず冷や水を浴びせられたような気分になった。
しかし、その場では、あまり深く考えることはなく、聞き流すことにした。
ところで、説明会では入学願書を自宅に送ってもらうために、配られた用紙に、自分の住所と氏名を書くのだが、その用紙には、なぜか年齢を書く箇所もあった。
私はそれに記入した。
会場から出ると、数名の係員がいて、その用紙を彼らに手渡すのである。
私も用紙を手渡して、会場を去ろうと歩き出した。
何やら気配を感じて、ふと後ろを振り返ると、なぜか係員たちが、私がたった今、手渡した用紙をみんなで見て笑っていた。

「あれ? 私の住所と氏名って、何もおかしいことはないよな。そうか。年齢を見て笑ってるんだ」

と、思った。
もちろん、彼らが昨日見たお笑い番組の話をして笑っていた可能性もある。
しかし、私にはそのように見えなかった。
彼らは、用紙と私のほうを交互にチラチラ見て笑っていたからである。
自宅に戻ったとたん、悔しさがこみ上げてきた。
私は、

「あそこは社会人が学びに来るような大学ではないんだ。どこかに社会人が学びに来ても笑われない大学はないのか? 探してみよう!」

と思った。
それで、初めて様々な大学の違いについて、真剣に調べ始めた。



25歳以上の学士課程への入学者の割合(国際比較)   
※25歳以上の学士課程への入学者の割合(国際比較)    
   
   
   
  
色々と調べた結果、早稲田大学というところには、現在はなくなってしまったが、最近まで第二文学部というところが存在し、そこではたくさんの社会人が学んでいた、ということがわかった。
第二文学部がなくなってしまったことは残念だが、もしかしたら、早稲田大学には、まだ社会人学生を受け入れることができる風土というか、文化のようなものが残っているかもしれない。
自宅からもどうにか、かよえそうな距離だ。
そう思った私は、早稲田大学を受験しようと決意した。
しかし、困ったことは、近所の大学と早稲田大学とでは入試の難しさがまるで違っていたということであった。
高卒認定試験にとおったとはいえ、高校にも予備校にもかよったことがない私にとっては非常に困難な挑戦となった。
私は、今回も書店で参考書だけ買ってきて、自宅において一人で勉強する方法を選び、予備校などにはかよわなかった。
それは、他人に脅かされたり、無理じいされたりすると、やる気がなくなってしまう自分の性格を考えてのことだった。
仕事をせずにすむ時間は全てを勉強に使った。
仕事がある日は、早朝から仕事が始まる前までの時間と、仕事が終わった後、寝るまでの時間を勉強に使った。
仕事がない日曜や祝日、盆や正月は、朝から寝る直前まで勉強し続けた。
何年かかったかは記録をつけていなかったから正確にはわからないのだが、おそらく3年くらいかかったか、私はついに早稲田大学に一般入試で合格することができた。



ところで、なぜ社会人入試で大学に入ろうとしなかったのかと、よく尋ねられるのだが、私は有名芸能人でもスポーツ選手でもないので、社会人入試では大学側が、そんな宣伝にもならない、ただの中卒の男を合格させてくれるわけがないと考えていたからであった。
実際にはそんなことはないらしいと、入学後に人から聞かされたが、私は世の中にそんなうまい話があるわけがないと思っていたので、自分には、一般入試で合格する以外の道はないと考え、社会人入試で受験することは、終始全く考えなかった。



3.大学卒業から現在

(1)再び漫画を描く

大学在学中、ある人に、ここまでに書いた私の人生について語ったことがあった。
その人から、もう一度漫画家を目指すつもりはないのか尋ねられたので、私は

「やってみたい気持ちはある」

と答えた。
すると、その人が私に、

「漫画家を目指していた頃って何年前の話ですか?」

と尋ねた。
私が、20年くらい前ですと答えると、その人は失笑した。



しかし、私は大学卒業年の3月に、本当に週刊少年ジャンプに漫画を投稿した。
すると、賞は選外だったものの、内容が面白いからと電話をもらい、担当がついた。
そして、1年をめどにデビューを目指すことになった。
手前味噌でこっけいだと思われるかもしれないが、漫画家を目指していた時から20年以上も過ぎ、デッサンは今の漫画界では、おそらく一番下手。
絵柄も今風とは遠くかけ離れているのに、ジャンプに投稿すれば一度でちゃんと連絡をもらえる。
自分もよくやるよ、と思った。
しかし、喜びもつかの間だった。
約半年後、電話をくれたその担当が異動でいなくなり、望みをかけていた新人賞にも落選した。
私は悩んだ。
あと2年、3年と朝から晩まで漫画を描くことに費やし、それでも漫画家になれなかった場合、どういう結果になるのかということを、考えざるを得ない年齢になっていた。
私は、これ以上漫画家になることにこだわっていると、人生そのものが破壊されるだろうな、と感じた。
そして、再び漫画家への道を断念することにした。
電話をもらった時の作品は、
『パラのギャグ漫画』
に収録してある軍隊学校の漫画である。
「漫画は絵じゃない。中身だ」
という信念に基づき、絵は上手に描いていない。
(元々下手だが、それでもなお下手に描いた。絵でごまかすのは、今でも好きではない)



(2)そして現在

現在、これまでに描いた漫画のうち、私の手元に残っていたものを、
『パラのギャグ漫画』
というタイトルで、アマゾン、アップル、楽天、角川を通じて配信している。
あなたが普段利用しているアマゾンや、アップルのiBooksなどで検索していただければ見つかると思う。



すでに書いたように、私の作品は極端に評価が分かれる。
例えば、職員室で大手週刊少年誌の副編集長がほめてくれていたことを知ったという作品も、夏合宿での雑誌社への持ち込みの際に某週刊少年誌の編集長が酷評した作品も、その後で2人の漫画家がほめてくれた作品も、全て、『クルッチョ!彼はたわけている』という同じ1つの作品である。
それほど評価が分かれる作品とは、どのようなものなのか、是非読んでみてほしい。
それから、ボールペンだけで描いた、恐竜のキャラクター(パラ)による漫画も収録されている。
もしかしたら、特に最近の漫画を読み慣れている人は、デッサンを気にせず、ボールペンだけで勢いにのって描かれたあの漫画の見慣れない作風に、カルチャーショックを受け、受け入れがたいものだと感じるかもしれない。
しかしあれが、私が子供の頃から描いてきた漫画の、本来の作風である。
漫画は、デッサンが上手くなければ描けない、デッサンが下手な漫画は読んでもつまらない、などということはない。
漫画は、デッサンが下手な人でも、誰でも描ける。
しかも、プロに勝るとも劣らない面白い作品が描ける。
私は時折、デッサンが上手ければ上手いほど、漫画はつまらなくなるのではないかと感じることさえある。
また、漫画の内容の描き方には基本などない。
そんな決まりのようなものに従って描かれた漫画がどれほど勢いのないつまらないものか……。



ではなぜ、私はプロを目指してから作風を変えたのかと疑問に思う人もいるかもしれない。
それは、漫画編集者たちには、常識外の漫画を受け入れられるような柔軟な心はないと、私が彼らのことをあきらめていたからだ。
しかし、雑誌連載を目指すのでなければ、そのようなあきらめは無用だ。
そう考えた私は2007年に、久しぶりに本来の作風で漫画を描いた。
それがあの恐竜の漫画だ(一部に昆虫のキャラクターも登場する)。
私があの漫画に込めている思いは、漫画とは本来、もっと自由で楽しいものなのだということである。



パラの漫画
※『パラの漫画』。2007年。



これからは、誰もが自由に漫画を描き、インターネットを通じてそれを読者に直接読んでもらうことができる、そんな漫画の新しい時代がやって来ると、私は信じている。
このサイトは、世の中の人たちに私のことを知ってもらうことによって、私の漫画を読むきっかけにしてほしいという思いから作った。
それでは、私の話はここまでとする。

2018年7月 作者パラ

●Kindle(アマゾン)

●iBooks(アップル)

●Kobo(楽天)

●BOOK WALKER(角川)


Kindle版はWindows、Mac、Android、iPhoneでも読むことができます。(アプリのインストールが必要です)
Kindle版、Kobo版は、2巻と1巻が合わさった形で、1冊のコミックに収録されています。

このページへのリンクは自由です。



『日本の漫画界の現状と未来について』



2019年8月 作者パラ

コミック誌・コミックス推定販売部数   
※表1:コミック誌・コミックス推定販売部数



日本の漫画の販売数はかつて右肩上がりだった。
ところが、単行本では1994年、雑誌では1995年をピークとして下落に転じた。
上の図1の棒グラフの上段、濃いグレーの部分はコミック誌(雑誌)の販売部数の推移を示しており、下段の薄いグレーの部分はコミックス(単行本)の販売部数の推移を示しているが、雑誌の激しい落ち込みに比べると、単行本の販売部数はほとんど減っていないように見えるかもしれない。
しかし単行本の販売部数も、ピークであった1994年には55,390万冊であったものが、2017年には31,608万冊まで下落している。
次に電子コミックを加えた販売金額の推移を見てみよう。



電子コミック誌・電子コミックス・コミックス誌・コミックス推定販売部数
※表2:電子コミック誌・電子コミックス・コミックス誌・コミックス推定販売部数



こうして電子コミックの販売金額を加えてみると、近年漫画の売上は横ばいのようだ。
ただ、電子コミックについては、図1で示した販売部数のデータが存在せず、販売金額のデータしか存在しない。
この図2では、もちろん紙の漫画についても図1とは異なり、販売部数ではなく販売金額のデータを使用しているが、販売金額で推移を見る場合には注意も必要だ。
昔と現在とでは物価が異なっているからだ。
電子コミックの売上を加えた合計販売金額で見ても、ピーク時の1995年には5,864億円であったものが、2017年には4,330億円まで減少している。



ところで、この『日本の漫画界の現状と未来について』において、ここから下に書くことは、全て私の見解であり、グラフの元となった出典資料の著者や権利者の見解ではない。



漫画の販売が低迷しているのはなぜだろう? 
私がその最大の原因として考えることは、優秀な人材が漫画家にならなくなってきているということである。
ではそれはなぜか? 
私自身の体験も書いたが、漫画編集者は漫画家に対して、信じられないひどい態度で接している。
それは今の漫画業界でも全く変わっていない。
しかし、今はもう昔とは違って、どんなにひどい態度をとられても、我慢して従順に言うことを聞くのが当たり前という世の中ではなくなってきている。
だから、もし漫画編集者が今後も態度を改めることがなければ、これからはますます才能のある人たちが漫画家にならなくなり、どんどんつまらない漫画ばかりになって、漫画はさらに販売不振に陥り、いずれ漫画雑誌はつぶれるだろう。
漫画家は活動の場をインターネットに移し、漫画編集者は職を失うという形で、これまでの行いの報いを受けることになるのではないか。
私にはあの凋落のグラフが、漫画編集者が漫画家に対して、やりたい放題のひどい態度で接してきた時代の、終焉に向けてのカウントダウンに見える。



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